健康だと信じていた27歳。
がんになって、大切な人たちの顔が浮かんだ。

2020年、27歳。平日は営業職の会社員、休日はフードコーディネーターという夢を叶えるための活動をしていて、働くのが楽しかった時期でした。身内にがんの人もいないし、会社の健康診断ではいつもA判定。自分は健康だと信じて疑いませんでした。たまたま行った婦人科で卵巣がちょっと腫れていると言われたときも、自覚症状はなかったです。念のため検査に訪れた大きな病院で、卵巣がんだと診断されました。しかも卵黄嚢腫瘍という、卵巣がんの中でもトップクラスに進行が早い、と言われているがんでした。

本当に予想していなかったので、驚きが最初にありました。自分は死ぬのかな、と生まれて初めて死を意識した瞬間でした。家族、付き合ったばかりの彼、上司、仕事のお客さま…自分が関わった人の顔が次々と浮かびました。そして、これからどうしよう、という焦りも。親孝行もまだしてないし、キャリアもまだまだこれからなのに。任されている仕事も、夢を実現するための努力も・・・ここまで積み上げてきたものはどうなってしまうんだろう、と。
さらに不安に思ったのは、妊娠できるのかな、ということ。明確に何歳までに子どもがほしい、というのもあまりなかったはずだったのですが、子どもを持つ可能性や、もしかしたら結婚できる可能性もなくなるかも、という将来への不安が大きかったですね。

一人でがんの診断を受けたときは、これからどうしようという驚きや焦りが強く、意外なことに涙は一つも出ませんでした。でも、改めて両親に同席してもらって先生の話を聞いた場では、泣いている母の姿に思わず涙がこぼれました。

長藤由理花さん

子どもを持てる可能性を残すかどうか。
時間がない中、治療を選択しなければならなかった。

いつ卵巣が破裂してしまうかわからない状態だったので、一刻も早く卵巣をとる手術をしましょう、と先生から提案されました。
卵巣をとる決断をしても、何より気がかりだったのは、将来子どもを持つ可能性を残せるか、ということです。当時疾患が見つかっていたのは、右側の卵巣。しかし、左側の卵巣に転移するリスクを考えると、両方とってしまうのが最善と言われました。当時まだ結婚を考えてはいなかったものの、どうしても妊娠の可能性は残したいという思いでした。両親はがん治療後の転移・再発のリスクを気にしていたのですが、時間がない中で治療を選択しなければならず、私は左側の卵巣を残す決断をしました。

手術前に先生から、おなかを開け左側の卵巣にがんが転移していた場合、左側も一緒に摘出する可能性があると説明されていたので、手術を受けるのは本当に怖かったです。だから、全身麻酔から目が覚め、先生から「大丈夫でした。右側だけきれいに(破裂することなく)摘出しましたよ」と告げられたときは、安堵の涙が止まりませんでした。

手術後の病理検査の結果、私のがんはステージⅠであることが分かり、すぐに抗がん剤の治療が始まりました。入院して抗がん剤を投与し、自宅で療養する、これが1クールで、この抗がん剤治療を3クール行いました。途中、白血球の数が低下し、治療できない期間があったため、抗がん剤治療が終了するまで4か月半かかりました。

抗がん剤の治療は「つらかった」の一言です。副作用で吐き気とだるさに襲われ、起き上がることもできない。先生から吐き気止めの薬は出してもらえましたが、抗がん剤自体の投与量を減らすことは難しい。耐えるしかありませんでした。
抗がん剤の点滴注射による血管の痛みも予想外につらかったですね。私はもともと血管が細いのですが、投薬を続けることでさらに血管が脆くなってしまい、最後の方は、注射の針を刺せる所が見当たらなくなり、指と指の間から刺したこともありました。

抗がん剤の副作用によって、見た目が変わってしまうことへの不安もありましたね。
細胞が死んでしまうので、肌が黒くなってシミも増えましたし、爪も真っ黒になってしまいました。いまではかなり薄くなりましたが、私の腕のいたるところに色素沈着した注射痕も残っています。それと知識としては知っていたのですが、実際に髪の毛が抜けてしまったのが、とてもショックでした。2クール目が始まったまさにその日、手でかき上げただけで大量に髪の毛が抜けてしまったんです。その日のうちにほぼ地肌になるほど、全部の髪の毛がなくなりました。まつ毛も、全部抜けてしまいました。今思い返してみると、27歳の女の子にとってはやはり辛い治療だったなと思います。

長藤由理花さん

母がかけてくれた、
バスタオルのベール。
親不孝だな、と悔しかった。

当時はコロナ禍だったので病院の面会は基本的にNGだったのですが、病院の先生の判断で、1日だけ母との面会を許してもらったことがありました。体力がなかったので母が体を拭いてくれたのですが、脱衣所の鏡に髪が抜けた自分のみじめな姿が映って。そのとき母が、前からバサッと、バスタオルを私の頭にかけてくれたんですね。この姿を私が見なくて良いように、という母のやさしさだったと思います。母がかけてくれたバスタオルが、なんだか花嫁さんのベールみたいに思えて。27歳、花嫁姿を見せてあげても良い年齢なのに、すごく親不孝だなと。すごく悔しかったのを覚えています。

今、自分が女の子の母親になってみて、あの時の母はどれほど辛かったか、どれほど悔しかったかというのが、改めて分かったような気がしています。やっぱりがんというのは、家族も取り組まないといけない、辛い思いをしないといけない、そんな病気なんだなということがわかりましたね。

精神的に追いつめられている中、
お金の不安も大きかった。

精神的な負担ももちろんありましたが、経済的な負担も大きかったです。
入院して抗がん剤治療を続けている中、治療費に加え個室代まで払うことになりました。最後まで大部屋で粘ろうとしたのですが、隣のベッドの方のご飯の匂いまで全部ダメになってしまって。ご飯が運ばれる音だけで吐いてしまうようになったので、途中からは1泊2万円を払って個室を利用しました。個室なら電話も自分のタイミングでできましたし、お金があったら迷わず最初から個室にしていたと思います。

治療にあたり、お金が全部でいくらかかるのかというのは、想像もつかなかったのですが、なんとなく、20万とか30万ぐらいかなと思っていました。いつもは3割負担ですし、高額療養費制度もありますし、風邪薬をもらいに行く時だって、お会計は500円ぐらいで済みますから。

でも、高額療養費制度を利用した上でも、自己負担額はまさかの100万円ほど。
治療費だけだと30万ぐらいですが、そこに個室代42万、交通費やその他諸経費に13万、治療でできたアザを消す美顔器やウイッグ代に17万ほどかかりました。
当時は、若く健康に自信があったこともあり、保険に入っていませんでした。
しかし、治療をしていた4か月間で、お金がどんどんかかっていき、がん保険に入っておかなかったことを心から後悔しました。これからもっとお金がかかるのかなとか、もし不妊治療が必要になったら、さらにいくらかかるんだろうかとか、お金に関する不安にとても苦しみました。

治療費以外にかかる費用は
どのくらいだった?

差額ベッド代※1※2(個室の場合)
日額(平均)8221
カツラ・ウィッグ購入費※3
総額(平均)11万円
交通費・宿泊費※3
日額(平均)3.8万円

※1 中央社会保険医療協議会「主な選定療養に係る報告状況令和2年7月1 日現在」

※2 差額ベッド代のかかる個室などを希望された場合。差額ベッド代が発生しないケースもあります。

※3 がん罹患者およびその家族へのアンケート調査(2022年5月アフラック実施)

親には心配かけたくなくて、一人で悩んで。
仕事や生活などあらゆる不安を、
誰かに相談できたら良かった。

治療方針では、先生の言葉を信じようと決めていました。むしろ、先生に相談するような内容でないことで悩みました。
例えば、キャリアや収入面のこと。治療中は仕事を休んでいたのですが、昔と同じように働けるようになるんだろうか、と悩みました。そして、彼との関係性への不安も。当時、彼とはお付き合いを始めて間もなかったのですが、見た目が変わった私を彼はどう思っているんだろう、と。髪の毛がぬけるつらさを吐き出せる先がありませんでしたし、妊娠や出産の話なども、彼には話せませんでした。

病院の先生や親、彼には相談できないようなことを、相談できる場がなかった、というのもとても大きな不安でした。
当時は、心配をかけたくなかったので親の前では泣かないと決めていました。その一方で、誰かに話を聞いて欲しくて。同じ女性で、がんの専門知識があって、話を聞いてくれる方というのが身近にいたら良かったなとすごく思いますね。

相談できる人がいなかったため、ネットで将来への不安をひたすら調べる毎日でした。でも27歳で、卵巣がんで、妊娠を希望している女性で、など私と同じ条件の方の情報というのは、結局ネットでは見つけ出せませんでした。

後になって、アフラックのがん保険なら、がんの専門知識を持つ方にそういった不安や悩みを相談できるサービスも付いているということを知りました。そういう点でも保険に入る意義は大きかったのでは、と今思います。お金の損得の面でしか、保険を認識できていなかったかもしれないですね。がんの場合、保障だけでなく、なんでも気兼ねなく相談できる人がいる、ということも重要だと実感しました。

がんの告知は突然で、
何をすればよいのか
わからなかった?

はい 66.9%はい 66.9%

※ 回答数=2,171(がん経験者) 2020年4月アフラックネット調査

失ってばかりじゃなかった、と当時の自分に言いたい。

当時は、何もかも失ってしまったという絶望が一番辛かったですね。ネット上で、希望になるような情報を探すのは限界がありましたし。でも、治ったらふつうに仕事にも復帰できますし、結婚だってしている人はいます。希望が持てる話をしてくれる人がいたら、前向きに考えられたんじゃないかなと思います。何もかも失ったと思っていましたけど、3年たった今、フードコーディネーターとして楽しく仕事をして、治療を支えてくれた彼と結婚して子どももできて。実際は、失ってばかりじゃなかったんだ、とわかりました。もし病気になっていなかったら、自分が本当にやりたいことを仕事にするという決断は、20代ではできなかったと思います。がんになって、結果的にフードコーディネーターという夢を叶える、人生のターニングポイントになったというのは良い面だったなと思います。
あとはやっぱり支えてくれた親、守りぬいてくれた彼には、本当に感謝しています。

長藤由理花さん

自分に起こり得るリスクを想像してみてほしい。

最後に私が伝えたいのは、健康な人でもがんになります、ということです。
若くても検診を定期的に受け、少しでも気になる点があれば病院にかかり、忙しい毎日のどこかで一度立ち止まって、自分に起こり得るリスクを考えてみてほしい。そして、そのリスクに対し何か備えておく必要があると感じるなら、がん保険などを検討してみると良いのかなと思います。

2024年3月現在の情報を元に作成(本記事に記載の調査・アンケート時期を除く)

※がんを経験された個人の方のお話をもとに構成しており、治療等の条件はすべての方に当てはまるわけではありません。 ※商品やサービスの詳細は「契約概要」等をご確認ください。